お世話になりました

「覚えておいででしょうか?」

 今日は、平日ですが下見のお客様が結構来られるので、
大家さんで下見のご案内を手伝っていただける、『まりみ寮』の吉川さんと
『レジデンス藤屋』の藤田さんがお手伝いに来てくださいました。
お二方とも30年以上学生さんを見てこられた、
ベテラン中のベテランで、大学指定アパートの場所も全部覚えておられます。 
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 片岡さん親子は今日下見に来られて、
お部屋を決めて行かれました。
 帰られる時にお父様が、やおら
「実は私、工大卒でして、親が右も左もわからない
1年間は寮に入れと言うもので、
『まりみ寮』という所に入っていましたが、
今でもあるのでしょうかね」と言われます。

「エー!!それなら今日『まりみ寮』の吉川さんが
来ておいでですから、会われます?」と言うと
「私は1年間だけの寮生ですので、覚えておいででしょうかね・・・」と
心配そうにおっしゃいましたが、丁度ご案内から帰ってこられた
吉川さんと、30数年ぶりのご対面となりました。
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「当時『まりみ寮』が建ったばかりで、入居者も全員1年生で
ハチャメチャで、随分御迷惑おかけしましたよ」
「おーすっかりいいお父さんになられて、でも面影はあるある」
「坂道が大変でしたが、私の部屋からの金沢の夜景は
今でもはっきり覚えていますよ」とか、しばし思い出話に
花が咲きました。
 お2人に了解を得て記念写真を撮らせていただきました。
一瞬ですが、私には片岡さんが工大生に、
吉川さんが若かりし頃のおじさんに見えました。
長い間学生さんのお世話をされていると、
こんな素敵なご褒美をいただけるのですね。

後輩のおかげ

 昨日のこと、品のよさそうな紳士が
相談室に入ってこられました。
「ちょっと仕事でこちらにお邪魔したのですが、・・・」
と言われますが、余り営業の方の来られない職場なため、
「はあ~」と私達が気の無い返事をしたものですから、
「実は私ここの大学の卒業生でして、仕事の話も
さることながら、ずいぶん変わったので目を見張るようです」
と話し出し、思わずお話に聞き入ってしまいました。
「私はちょっと白髪が目立ちますが、こう見えて名高達男と
同期でして、あんないい男が工大にいたのかよ?
って思いましたよ」とか、「〇〇先生に昔部活動でお世話になり
ました」とか「△△先生は今も現役でおいでなんですね」とか
「昔はあちらに体育館がありまして・・・」とか本当に懐かしそうに
お話されました。
「昔は工大生です。って小さい声で言っていたけど、
今では、後輩のおかげで、胸をはって工大卒です
って言えますよ」と最後に言われました。
最後のこの言葉で、この方の愛校心をつくづく感じることが出来ました。

「下宿興村」の思い出

 学生時代の友達と毎年バイクでツーリングをしていると言う黒川さんが、
5月のゴールデンウィークに「おばさんとゆっくり話がしたいと」言って
興村さんを訪ねられた様子を、7月の「おばちゃん日記」
興村さんが綴っておられ、ブログに登場して頂けないかお願いしたところ、
快く学生時代の思い出を教えてくださいました。               
黒川芳光さんは1984年3月に工大工学部土木科を御卒業されました。
1980年の入学から御卒業までの四年間を興村さんの下宿で過ごされました。
                                                                            

  下宿時代のエピソード

 私は 大学時代の4年間を 興村さんの下宿にお世話になりました。
1人暮らしの多くの友人から比べると、
学校から距離があるにもかかわらず移住しなかったのは、
自分にとって 非常に居心地が良かったからに他なりませんでした。
  一つは、下宿が興村さん宅の敷地内にアパートの様に
別棟に建てられており、出入りに気を使わずにすみ、
興村さんが特に干渉する訳でもなく、些細な事で困ってると、
なぜかタイミング良く声を掛けて頂き  
手を差し伸べてくれるのです。
何故分かるのか不思議に思いましたし、
これが絶妙は距離感なんです。
  もう一つは 下宿棟の4部屋を 一人で占領してる状況にありました。
1年目は他に先住の先輩が2名居りましたが、
2年目以降は私一人となり なぜか新しく入っても来なく、
寂しい反面 一人で下宿棟を 好き勝手に使用出来たからです。
状態は下記のエピソードで説明しますが 、
今思うと本当に「興村さんごめんなさい」ばかりです。
「幽霊」
  失礼なのですが 当時の下宿の棟は 古くなってきており
私一人の住人になってからシーンとしているので
友人の誰が言い出したか 「幽霊が出そう」から
「幽霊が出るらしい」になっておりました。
ある夜 友人の山崎君が ふらっと遊びに来ました。
夜中に彼が怖がりなのを思い出し 、笑いながら
「ここ 幽霊が出るの知ってるだろう?」と投げ掛けると
「うん 聞いてる」と答えたので 私は真顔で低い声で、
「こんなんだよ」と 言うと 、 彼は本当に私が
変わると思ったらしく 彼の顔色が見る間に青くなっていきました。
      山崎君 ごめん。

「バイク」
  今でも学生時代の友人3名と年1回は
ツーリングに行くくらいバイク好きの私は 、
当時から何台もバイクを持っており 、
自分で整備する事も大好きで 、友人から
「黒川工場に持って行けば直してくれる」と評判が出たくらいで、
事実何台も直しました。
当時下宿に一人なのを良い事に、
玄関前は整備工場と化したり、玄関内には 3台も置き、
挙句には廊下にも1台上げ込み、その上
分解しては部品を部屋に持ち込んだりと
下宿棟を好き放題使用しておりました。
普通そんなこと許されないのに、興村さんは大目に見てくれていました。

「風呂」
  当時の下宿には、 普通風呂は無く
銭湯に行くのが当たり前でた。
金銭的理由から毎日入ることなど出来ませんでしたし、
銭湯の『扇が丘温泉』まで距離もありましたから、
風呂嫌いの私にとっては 3日~4日ぐらい
風呂に入らないのは別段苦にはなりませんでした。
  しかし 、急にコンパや街へ遊びに行くとなると 、
せめて首から上は身奇麗にしない訳にはいかず 、
下宿に湯沸かし器など無いため、お湯をコンロで何度も沸かし 、
台所でよく首から上だけを洗ったものでした。
今思えばその時に、ガスを沢山使いました。ごめんなさい。
   ただ その後、 知恵は付くもので、3年生くらいからは
風呂付のアパートに住んでる大原君(バイクのツーリング仲間)
に 月極めで確か500円で週2~3回のペースで
風呂に入れさせてもらいました。

「恥ずかしい
 当時は 携帯電話など夢のまた夢の時代で 、
電話や手紙等は興村さん宅経由でした。
彼女からの電話も、取り次いでいただきましたが、
隣の部屋に居る興村さんに聞こえてしまうのが
恥ずかしくて思うように話せず、
「なんだかいつもと違う」と彼女に言われたりしました。
 また 遠距離恋愛していて、
彼女からの手紙も興村さんから
受け取るので、なんだか恥ずかしかったです。

「方言」
 下宿に住み始めた頃は 、
何かと声を掛けていただきましたので、
一人で生活し始めた時期の自分にとっては
大変心強かったです。 ただ その時は
金沢の方言があまり分からず、
興村さんの言っている事が理解できなく、
返事に困った時もありました。
後々に興村さんの息子さんから聞いたのですが 、
息子さんでさえ興村さんの方言で分からない時が
あると聞き安心しました。
今では金沢の友人等と話をすると
シッカリと自分も金沢弁で話してます。

「へそくり」
   当時のコカコーラの1リットルは中身の代金とは
別に瓶の預かり代として30円加算して支払い、
瓶を返却すれば30円返ってきました。 
あの頃は毎日のようにコーラを飲んでいまして、
買う度に瓶を返却すれば良いのですが 、
不精者の私にとっては不可能な事でした。
そのせいで 下宿の廊下は 最大で150本位は空瓶が並んでいました。
でも月末で お金が無くなると 、この瓶を沢山抱えて
食品を買いにいく非常金庫の役割をしてました。

   こうして 懐かしく下宿時代の事を思い返すと、
大変困った学生だったと今更ながらに反省してます。
また 興村さんには沢山御迷惑をおかけして、本当にすみませんでした。
  でも 金沢はとても大好きな街で 、女房も金沢から貰いました。
女房の実家に帰ってくるのは 何時も楽しみにしてますし、
老後は金沢で暮らそうかとも女房と話したりしてます。 また時間を見つけて興村さんの所へ
遊びに行きますので宜しくお願いいたします。
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後日興村さんにお話をお伺いしましたら、
当時興村さんは御主人を亡くされて、
下宿業にもやる気をなくしていて、
食事も作らなくなり、古くなった下宿には、
新たに人を募集することもしない頃に                                       黒川さんが住んでおられたようで、                 
黒川さんの思い出をお聞きしたら、
「私の壊れたミシンを直してくれたり、
料理が上手で、私に作ってくれたりした子で、
人当たりがいいから、同性にも異性にも好かれた人です」
とまるで昨日のお話をされるように、話してくださいました。
 「ほーら今は良いお父さんになってしまっているやろ」って
写真を見せてくれて、まるで我が子の事を話されるようでした。

「綿野寮」寮生活の思い出(番外編)

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 3回に分けてお伝えした「綿野寮」の思い出ですが、
玉井様のお手紙は、素敵に締めくくられていたので
是非ともお伝えしたくて番外編を載せます。

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「綿野寮」寮生活の思い出(No.3)

 『早いものですね。卒業してもう25年も経ったとは思えません。』
と「綿野寮」に4年間住まわれた玉井明寿氏のお手紙に書かれています。
たくさんのきらきら輝く思い出のエピソードも最終回になりました。
「いい加減な先輩はいい先輩」編

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「綿野寮」寮生活の思い出(No.2)

 1984年から4年間「綿野寮」においでた玉井明寿氏から
素敵なエピソードをいただきました。
 今回はその第2編です。

「おまえやばいんとちゃう?」事件

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「綿野寮」寮生活の思い出(No.1)

 学生生活の思い出を教えていただけないかと
色々と卒業生の方にお願いしたところ、「綿野寮」に
1984年から4年間いらした玉井明寿氏から楽しい
思い出話をいただきました。
 素敵なお手紙ですがたくさんあるので、
3編に分けて掲載させていただきます。

綿野寮の思い出はた・っ・く・さん、たくさんあります。
4年間過ごしたところですし、高校卒業したばかりの世間知らずの
私を、少し大人にしてくれた場所でもあります。
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寮生活を6年間送って、今思うこと

丸山洋一さん

1991年電子工学科入学
1997年大学院電気電子工学専攻卒業

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丸山さん(左)と藤田寮長(右)

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私は入学当初1~2年、寮生活をしてからアパートに住むという思いで寮に入りましたが
結局大学院卒業まで6年間レジデンス藤屋の藤田さんにお世話になりました。

私は、寮というと食事が付いているアパートという認識で寮に入りましたが
実は、御飯に色々な人と顔をあわせることで、食事が楽しく
常にコミュニケーションを取るので、自然と会話能力が向上します。

ある意味部活と同じような効果があると思います。
また先輩方や後輩とも親しくなることで、色々なことを教えてもらいながら
大学生活ができたと思っています。

藤田さん(以下寮長)は厳しい人で、
大学生活を大事にしろ、何しに大学に来ているんだということを
良く言われたと記憶しています。

しかしながら大学で遅くなったときも、ご飯を取っておいてくれたりして
大学の本分を全うしていれば優しい寮長でした。

私は大学3年の頃から、寮長に親しくしていただき、富山までラーメンを
食べに連れていっていただいたり、寮の買出しに一緒に行ったりと色々と目をかけて
いただきました。

在学中、細かなエピソードはたくさん有りますが、今思い返すに
在学中は自分の親父の代わりであり、大学では技術を、寮では生き方を学んだと思います。
自分が大学院に行ったのも寮長の影響があったと思いますし
現在、まがりなりにもエンジニアとして成り立っていけているのも、
寮長との出会いがあったのだと感じております。

現在の会社では、技術だけでは役に立たない所まで厳しくなっています。
お客さんとの交渉、説明ができてこそ、エンジニアとしてやっていけます。
その大事な部分を教えていただいた寮長には本当に感謝しております。

最後になりますが、現在においても寮長との付き合いは第2の親父として
継続しており、心の拠り所として自分の中で大きな地位を占めています。

寮長にはいつまでも寮長を続け、良い後輩を育てて欲しいと思います。